とびらより引用
無施肥・無施水・無防除(無肥料・無農薬)。
省資源・省エネ、環境保全・浄化。環境低負荷型社会を実現する未来農業。
理に従う限り自然は対価・代償を求めない。
生産性を落とさず地域・規模・技術力・経済力を問わない持続型有機・自然農法。
「農法」とは銘打っていますが「自然が“いのち”を生かしている仕組み=“いのち”の生かし方」の応用編(農業編)。
施肥・施水・防除の慣行農法から自然農法と言われるものまで含め、農業面から捉えた、自然全体(そのもの)の説明です。
数ある巷の「○○農法、栽培」と同列次元で考えていては理解できません。
実は炭素循環農法などというもの(農法)はないのです。
ここは、強いて言えば「炭素循環農の法則」のページです。
自然は一つ故に、そこに基準を於いた唯一無二の、人が生きるための術、即ち真の自然農法があるだけ。
今まで「自然農法」と言われているものの全ては人基準の「自然風慣行農法」。
また、基準が自然側に移らない限り炭素循環農法のつもりでも、実質は「たんじゅん風慣行農法」(2014時点でプロの半数以上はこれ)。
何れも施肥・施水・防除の概念から逃れられず、本物とは似て非なるもの「似非」です。
確かに、提唱者(ルドルフ・シュタイナーと岡田茂吉)は、自然の側に基準を於いた真の自然農法を説きました。
しかし誰一人として、それを理解した者はいません(知らずに行っている者はいる)。
それは「“いのち”=こころの仕組み」が解明されていなかったからです。
“いのち”を知らずして「“いのち”を持ったもの=生きもの」を生(活)かすことはできません。
無施肥栽培(無肥料栽培、自然栽培、自然農、自然農法など)と聞くと「収穫物を持ち出せば土壌中の肥効成分がその分減るから持続不可能」と考えるのが一般的な反応でしょう。
しかし、それは杞憂というもの、無施肥栽培では土壌分析をしてみても、植え付け時、成育中、収穫後の土壌窒素濃度に殆ど変化がみられません。
始めから作物が使う窒素など土壌中には無いからです(無機態窒素は慣行の1/100前後、全窒素で半分以下)。
大量に施肥し更に、あれが足りないこれが足りないと、農業技師などに言われるままに微量成分など使っても、養分不足で苦労している農業者にとっては「そんな馬鹿な」と、にわかに信じられないでしょう。
しかし、無いからこそ使えるものがあり、単なる無農薬ではなく一切の防除が不要になるのが無施肥栽培なのです。
土壌中に無い窒素を使う仕組みと技術、防疫の意味と無防除でなければならない自然の非情なまでに厳格な仕組みを明らかにします。
農業における二つの手段(技術)「養分供給と防疫」このどちらが欠けても安定した食糧生産はできません。
そして現在、より自然へとの回帰現象が見られます。
でも、その多くは回帰ではなく逆行であり、発展の無い一時的現象。
歴史はらせん状、一回りしたら一段上がっていなければ発展でも進歩でもありません。
<中略>
現在の有機・自然栽培は、化学肥料・化学農薬以前への退行現象であり、実質は使用資材が天然というだけの施肥・施水・防除(殺し)栽培。
その理論と技術は肥と殺しを前提とした慣行農法と何ら変わらず、慣行農法の問題点を何一つ解決してはいません。
「施肥・施水・防除」を前提とする理論、技術体系は、その範囲内では有効であり正しいと言えます。
しかし、肥と殺しを否定する「無施肥・無施水・無防除」の真の自然農法は、全く別の自然の循環を活用した体系であり、施肥・施水・防除の理論・技術は役に立ちません。
施肥・施水・防除の知識で真の自然農法を語ることは無意味です。
<中略>
ゴミを捨てなくても拾わなくては綺麗になりません。
巷で行われている全ての自然農法(自然風慣行農法=自然猿真似農法=自然箱庭農法)は浄化一辺倒(のつもり)の断食農法(防除に相当)。
ゴミ拾いの手段がないため浄化が不完全で、無防除(手で虫をとってもストチュウでも防除)にもならず天然(漢方的)農薬などに頼っています。
また、施肥に替わる人為的な養分供給手段を欠いたままの片輪走行では、自由度・適応度が低く低生産性に甘んじ、現在(施肥・施水・防除=慣行栽培)の生産性レベルを保ったまま移行することはできません。
現在の農法に替わる未来の農法は、如何なる理由があろうとも、現行の水準以下の生産性であってはなりません。
歴史をみれば明らかなように食糧の生産量が、その時代の人口(上限)を決めています。
自然回帰も結構ですが「生産性を落としても・・・」という発想は「おまえの分は無いから死ね」と言っているのと同じ。
趣味の家庭菜園ならいざ知らず、プロの農業者の言うことではありません。
自然林野では炭素や窒素固定による肥沃化現象が見られます。
このサイトは、無施肥であっても、自然の仕組み(肥沃化現象=土そのものは痩せ養分循環量の増大)の応用により、養分供給手段=無防除化手段さえ得れば、慣行・施肥農法でできることは一通り可能になること。
欲しいものを何一つ捨てることなく、望まないものはすべて捨て去ることが可能であること。
そして、真の自然農法が両輪で走り出したことを宣言します。
自然は人に何も要求しないより引用
これまた、当たり前のことですが無施肥と言っても、植物が育つのに必要な養分や量に違いがあるわけではありません。
実際に無施肥・無農薬で作物を作っている者は多数います。
でも、詳しい養分供給の仕組みまでは、理解されていないのが実情でしょう。
理論的裏付けの欠如から手探り状態で多くの試行錯誤を繰り返し、安定した生産体制に至るまで遠回りをし、多くの労力と時間を費やしています。
そして、多種多様な農法が提唱され、また実践されています。
農法は農家の数だけあるとも言えますが植物が育つ基本的な仕組みは一つ。
その仕組みに沿わなかった時、作物は虫の餌となります。
虫の餌か人の食物かは、養分の供給の仕方(土壌環境や土壌生態系、養分バランスを保てるかどうか)で決まり、理論さえ分かれば無駄な苦労をすることはありません。
単純に考えて自然状態で虫に食われない植物があるのですから、それと同じ状態(仕組み)を再現すればよいわけです。
同じと言っても、何も全てを同じにする必要はありません。
時計の針は逆には回りません。
文明人が今更、サルや未開人の真似をしても始りません。
最も基本的、あまりにも当たり前過ぎて誰も気付かなかった「炭素」の循環の仕組みを同じにすればよいだけです。
要は自然の仕組みを知り、その仕組みを最大限に活かし作物を生かすこと。
仕組みさえ活かせれば資材を選びません。反発を承知であえて言います。
化学合成、遺伝子組み替えか天然資材、非組み換えかは、本質的問題ではありません。
化学、天然に関わらず「肥」と「殺し」は御法度。
肥を与えた結果が殺し。問題の本質は「殺し」にあるのです。
いったい、「肥」という概念は何時の頃からあるのでしょう。
人が耕作を始めた千、万年?の昔からでしょうか。
現代農業の基礎となる「無機栄養説」を説いたのは「農芸化学の父」と呼ばれているリービッヒです。
彼はもっと重要な(凄い)こと(「窒素無用論」「腐食の栄養略奪論」)を説いているのですが現在に至るまで、それを誰一人理解・評価するどころか逆に誤りとしています。
自然は人に何も要求しません。
人が「肥やす」という傲慢な思いを捨て、真摯に自然と向き合ったとき、初めて自然の真(本来)の力(意志)が見えてきます。
そして「防疫」という概念から解き放たれたとき、自由を与えられます。
<自然農法は「自由農法」でもあるのです。
自然の意思と人の思いが合致した時、自然は人に全てを与えます。
炭素循環農法の概要より引用
自然が生き物(“いのち”)を生かす仕組みを理解し、農耕地に於ける炭素循環を人為的に効率化。
「炭素循環量」を森林並か、それ以上にすることによる無施肥・無施水・無防除の自然農法です。
慣行農法や有機農法の全ての障害は施肥にあることを明らかにし、植物が土壌微生物との共生関係を保ちながら進化した環境、即ち「微生物の作り出す養分バランス」を土壌中に再現し保つことにより、作物にとって過不足のない養分供給を可能にします。
バランスは人が「とる」ものではなく、「とれる」もの(自然に均衡するもの)なのです。
環境汚染の原因にもなる化学肥料、堆肥(ボカシ)も無用。
逆に過剰施肥による汚染地を積極的に浄化。
無施肥であっても慣行農法以上の収量が得られます。
<中略>
自然農法や有機農法は難しいと言われますが、それは仕組み(理論)を知らないからです。
慣行と自然農法の実際面での相違は、施肥と防除の有無。
自然農法が成立する基因は、土の「清浄度=生物化度」と「肥沃度=進化度」の二大要因。
施肥農法では施肥量が増すほど清浄度が落ち(土壌バイオマスが減り)、バクテリアが主になり、二つの指標は相反。無施肥なら相反しません。
方法は、いたって簡単。
土壌中での有機物の分解は、C/N比40(炭素比=炭素量/窒素量)を境に、以下なら最も下等なバクテリア(真正細菌)、以上なら土壌微生物中では最も進化の上位にいる糸状菌(菌類)が主に分解を行うという特性を応用します。
<中略>
病虫害や連作障害等は、土壌中の有機成分の腐敗・分解の結果、産生された腐敗物質や無機化した窒素(アンモニア態+硝酸態)、肥料として投入された無機態窒素が直接の原因。
間接的には、腐敗による土壌の物理性の劣悪化(団粒構造の崩壊→緻密化→腐敗硬盤層形成等)や、それに伴う生物性、化学性の悪化等です(硬盤=耕盤=時には鋤床とも)。
生物性、化学性が良ければ機械的な踏み圧や降雨では土は硬化もしないし、すぐ戻ります。
有害成分の発生や、無機成分による養分バランスの崩れがなく、健康に育った作物は、虫や菌の活躍の場ではないため寄り付かず、無防除が可能。
そして、過剰な硝酸や腐敗物質を吸収しない作物は、味も日持ちも良く(菌が食わない)、人畜の健康に良い、本来の人の食物となります(炭素循環農法の野菜の硝酸イオン濃度)。
引かれるものは何もない(儲からなければ自然農法ではない)より
自然農法では、微生物の力を借り積極的に引き算をします。
しかし、システムに逆らったり、余計なものを加えたりしない限り、自然は足しこそすれ引くことはありません。
自然は生かすためのシステムなのですから。
生命現象では、物が低濃度側(生息環境)から高濃度側(生物)へという流れ方(摂食・吸収・固定など)をします(収斂作用)。
土壌微生物や植物の生息・生育環境中の養分濃度の方が低くて当たり前。自然なのです。
無施肥で、微生物のエネルギー源として炭素資材を多少使っても、投入窒素量は作物の窒素吸収量の10%前後でしかありません。
ところが、高→低という物(死物)の流れしか見ない慣行的殺し農法では、循環・収斂作用(高→低の流れ)は考えません。
作物の窒素吸収量より土壌環境中の方を高くし、吸収量の130%前後(平均的施肥量)にもなっています。
硝酸(窒素)による環境汚染から、これを100%にまで減らそうとの指導が行われてはいますが・・・。
その結果、高硝酸塩・腐敗風味農産物、環境汚染・破壊など、何らかの犠牲(マイナス要素)を強いられます。
要するに、生物の生存に必要なもの、簡潔に言えば命との引き替えです。
殺しの代償として命をもって償っているわけです。
100%に減らしたからといって、余計な物を足していることには変わりなく、やはり引かれます。
環境汚染・破壊は論外としても、従来の全ての農法と比較して生産性を犠牲にしたり、経費・労力を余計に要したり、防除が必要(虫や菌による処分の対象)であれば引かれている証拠です。
宇宙(自然界)を構成する個々のものが、全体としては常にプラス方向に進化発展してきたことをみれば明らかなように、生物界全体(その社会も含め)の生産性収支は、自然の理に沿う限りプラスになるようにできています。
もし、マイナスになるようであれば、何処かに矛盾(反自然)があり一見、自然に見えても再検討が必要です。
早い話が儲からなければ自然農法ではない。
真の有機農法は楽して儲かるもの、一般で有機農法と呼ばれ、各国政府が奨励しているのは“まがいものです。
土や作物は「作る」ものではなく「できる」もの。
バランスは「取る」ものではなく「取れる」もの、自然の側が決めます。
ですから、人ではなく相手(自然=仕組み=法即性)が指導者(基準)です。
土、作物、虫、微生物などや、自然農法を知らない者、新しい者(後輩)、より若い者が実際に教えてくれる先生となります。
基点(視点)の逆転により当然、上下関係も逆転。
「自分は誰の言うことも聞かない。誰からも教わらない」これが本物(自然農法の本質を理解した者)の言葉です。
だからといって、別段難しいことではなく実践すれば、伝えさえすれば、“あちら”(自然=下位者)から教えてもらえる仕組みになっています。
もちろん、“あちら”が代価を求めることはありません。
伝えるのも当然、無償でなければなりません(必要経費を除く)。
自然農法の先輩(実践者など)から教わることは何もありません。
先に知った者は、それを伝えるだけで何一つ教えることができないのです。
自然農法の創始者(岡田茂吉)は、自然農法に指導者は「要らない」と言いましたが、正確には「できない」。指導しては「いけない」です。
先輩からも貰えますが、それは「問い」。
これも逆転し、何らかの「答え」を出すと、後からその「問い」が出てきます。
人が指導しようとした途端、自然農法ではなくなります。
人から教わろうとしたその瞬間、学ぶことを放棄したのです。
視点=基点=教えが、自然の側(天)ではなく、人(地)=己の側(既成概念)になってしまうからです。
故に、先導者=出題者(煽動者?^^;)はいても、指導者はいません。
師弟関係も存在しません。あるのは無条件で子を育む、親子のような関係でしょうか。
これも本物を見分ける重要なポイントです。
指導者がいたら“おかしい”と断定して構いません。
巷の自然農法の指導者然とした者の教えや、そのグループが似非自然農法になってしまうのも、自然農法自体が未だに、あまり知られていないのも同じ理由でしょう。
人(先輩)の言葉ではない、自然農法の実践現場や生産物からは、直接教わることができます。
栽培・飼育記録などの“生の”データは生き物の“ことば”。
たとえ他人のデータでも貴重な自然の教えです。
ただし人知・感情を捨て、あら探し、疑う姿勢を忘れないように。
言うまでもありませんが作物に対する基礎的な知識(性質や生理作用、応用技術など)は、一般的農法と同じように、先輩や書籍その道の指導者などから教わることができます。
また単に、理論面だけなら既成概念同様、教えることも教えられることも可能です(このhpのように)。
自然農法では、微生物の力を借り積極的に引き算をします。
しかし、システムに逆らったり、余計なものを加えたりしない限り、自然は足しこそすれ引くことはありません。
自然は生かすためのシステムなのですから。
生命現象では、物が低濃度側(生息環境)から高濃度側(生物)へという流れ方(摂食・吸収・固定など)をします(収斂作用)。
土壌微生物や植物の生息・生育環境中の養分濃度の方が低くて当たり前。
自然なのです。
無施肥で、微生物のエネルギー源として炭素資材を多少使っても、投入窒素量は作物の窒素吸収量の10%前後でしかありません。
ところが、高→低という物(死物)の流れしか見ない慣行的殺し農法では、循環・収斂作用(高→低の流れ)は考えません。
作物の窒素吸収量より土壌環境中の方を高くし、吸収量の130%前後(平均的施肥量)にもなっています。
硝酸(窒素)による環境汚染から、これを100%にまで減らそうとの指導が行われてはいますが・・・。
その結果、高硝酸塩・腐敗風味農産物、環境汚染・破壊など、何らかの犠牲(マイナス要素)を強いられます。
要するに、生物の生存に必要なもの、簡潔に言えば命との引き替えです。
殺しの代償として命をもって償っているわけです。
100%に減らしたからといって、余計な物を足していることには変わりなく、やはり引かれます。
環境汚染・破壊は論外としても、従来の全ての農法と比較して生産性を犠牲にしたり、経費・労力を余計に要したり、防除が必要(虫や菌による処分の対象)であれば引かれている証拠です。
宇宙(自然界)を構成する個々のものが、全体としては常にプラス方向に進化発展してきたことをみれば明らかなように、生物界全体(その社会も含め)の生産性収支は、自然の理に沿う限りプラスになるようにできています。
もし、マイナスになるようであれば、何処かに矛盾(反自然)があり一見、自然に見えても再検討が必要です。
早い話が儲からなければ自然農法ではない。
真の有機農法は楽して儲かるもの、一般で有機農法と呼ばれ、各国政府が奨励しているのは“まがいもの”です。